原子核シッフモーメントの精密計算で 宇宙が物質だけからできている謎に迫る


 この宇宙は物質からできている。これは自明なことですが、“どうして物質だけなのか”は今でも完全には解明されておらず、物理学の不思議の一つとして残されています。東京大学 原子核科学研究センター 柳瀬 宏太(やなせ・こうた)特任研究員は、原子核シッフモーメントという物理量を精密に計算することで、この謎に迫ろうとしています。最近の実験と計算科学の進歩によって、答えの一端に手が届く日はそう遠くないかもしれません。

CP対称性が破れている証「電気双極子モーメント(EDM)」とは

 「この宇宙は物質だけからできていますが、そのためにはCP対称性が破れていなくてはなりません」と開口一番に話した柳瀬さん。この物理学の不思議に、原子核物理学で 迫ろうとしている研究者の一人です。
宇宙が誕生したばかりの頃、物質と反物質は同じ数だけ存在していました 。高エネルギーの光から物質は生成しますが、CP対称性が保たれていれば、反物質も同じ数だけ生成するからです (図1左)。そして、生成過程からわかるように、物質と反物質は再び出会えば逆の反応を起こして消滅します。しかし、この宇宙は物質だけからできています。それは物質が生成する反応が、反物質が生成する反応よりも高い確率で起こったからで(図1右)、そのためにはCP対称性が破れていなければなりません。

図1:物質の生成過程。CP対称性が保たれていれば物質と反物質は同じ数だけ生成する(左)。この宇宙が物質だけでできるためには、CP対称性が破れていて、物質ができる反応が、反物質ができる反応より高い確率で起こらなくてはならない(右)。

 CP対称性の破れがなぜ起こるかについては、標準理論の枠組みの中で「小林-益川理論」によって説明され、実験によっても裏付けられていますが、この理論による破れの効果は小さく、この宇宙が物質だけからできていることを説明するには不十分です。このため、CP対称性が破れていることで起こるはずの現象の観測と、その現象を説明する様々な理論とをつきあわせることで「CP対称性の破れ」が起こるしくみを探ろうという研究がさかんに行われています。その現象の一つが、電荷の偏りである電気双極子モーメント(EDM)です。
 ある粒子内部でCP対称性が破れていると、その粒子はEDMをもつことができるとされています(図2)。粒子が原子である場合、原子核の周りを回る電子の分布が偏れば、原子全体の電荷も偏ります。この電荷の偏りが、原子の場合のEDMです。原子EDMの測定はまだ成功していませんが、実験で原子EDMの値が得られれば、理論から計算した値と比較することで、「CP対称性の破れ」が起こるしくみに迫ることができると期待されています。そこで、柳瀬さんは、理論から原子EDMを計算する研究に取り組んでいます。

図2:原子の電気双極子モーメント。原子内部での電子の偏りに相当し、CP対称性が破れている場合に生じる。

核力によって生じる原子核シッフモーメントに注目

 「CP対称性の破れ」を引き起こす相互作用にはいくつかの候補があり、その一つが原子核内の陽子と中性子の間に働いている力「核力」です。原子EDMは核力によって引き起こされるため、CP対称性の破れを研究するのに適した現象なのです。ただし、核力は電子に直接は作用しないため、間接的な作用によって原子EDMを誘起すると考えられています(図3)。まず、核力により原子核内部のCP対称性が破られます。その結果、原子核は、原子のEDMに相当するような電荷の偏り「シッフモーメント」を生じます。このシッフモーメントと電子が相互作用することで、原子EDMが誘起されるのです。

図3:核力とシッフモーメントの関係。核力によって原子核のCP対称性が破られるとシッフモーメントが生じ、その影響を電子が受けて原子EDMが誘起される(左)。計算科学の世界では、CP対称性を破る核力から“原子核の計算”と“電子系の計算”を経て原子EDMを導き出す(右)。

 「CP対称性を破る核力から出発して、原子EDMを導き出すには、まず、“原子核の計算”によってシッフモーメントを求め、さらに“電子系の計算”を行わなくてはなりません(図3右)。いずれも膨大な計算ですが、それぞれが独立しているので、私は“原子核の計算”を研究開発しています」。
 柳瀬さんの研究は、原子核の計算をするために、どの原子核模型を採用するか決めるところから始まります。原子核模型とは、原子核の構造を、その物理的に重要な特徴を損なうことがないように単純化した模型で、クラスター模型、殻模型、集団運動模型、平均場模型などがあります。柳瀬さんは、殻模型を選びました。殻模型に基づいて計算機の中に原子核を再現し、それを使ってシッフモーメントを計算します。原子核を再現するとは、原子核の波動関数をつくることです(図4)。これは、この後にCP対称性を破る核力が原子核にどのくらいの影響を与えるのかを見積もるために大事な作業です。

図4:殻模型に基づく「原子核の波動関数」。特定のエネルギーの軌道に陽子または中性子(青丸)がどのように入っているかという配位の重ね合わせによって記述される。例えば、129Xeや199Hgの核子の配位は、約10億通りあるため、その波動関数は、10億の項に重みをつけて足し合わせたものとなる。

 では、具体的には、どのような原子の原子核を再現するのでしょうか。「質量数が129のキセノン(129Xe)や199の水銀(199Hg)は、電子が閉殻をつくっているため、原子EDMに対する電子の影響 を無視することができます。結果として、こういった原子では、原子EDMに対する原子核シッフモーメントの影響だけを考えればいいわけです。この特徴から、129Xeや199Hgの原子EDMをとらえようとする実験もさかんに行われています。最終的には、実験値と比較したいので、私もこうした原子の原子核について研究しています。ただ、129Xeの129個の核子や、199Hgの199個の核子がどのように軌道に入っているかという『場合の数』は、約10億通りに上ります。そのため正確に原子核の波動関数を再現するとなると、約10億の配位を重ね合わせなくてはならず、計算にはスーパーコンピュータが必要となります」と柳瀬さん。これまでに、東京大学情報基盤センターと筑波大学計算科学研究センターが共同運営するスーパーコンピュータ「Oakforest-PACS」を使い、自分でつくった199Hgの原子核の波動関数に、CP対称性を破る核力を入れて、シッフモーメントの大きさを計算しました。
 「まず基底状態のシッフモーメント(図5赤)を計算したのですが、他の研究者が計算した平均場模型の基底状態の結果(図5青、緑)と比較したところ、大きく違いました。そこで、殻模型で第一励起状態のシッフモーメントを計算してみました(図5橙)。すると、緑や青の値は、橙の値に近かったのです。この結果から、平均場模型では、基底状態に第一励起状態のシッフモーメントの要素が混ざっていて、実際の原子核を再現できていないのではないかと、私は考えるようになりました」。殻模型と平均場模型とで、どちらがよりよく原子核を再現できているかはまだ明らかになっていません。そこで柳瀬さんは、こうした計算をすることで原子核模型の妥当性も合わせて検討しています。

図5:シッフモーメントSを求めるための計算式(左)と、殻模型に基づいてつくった199Hgの原子核の波動関数を用いてOakforest-PACSを使って計算した結果(右のグラフの赤と橙のプロット)。CP対称性を破る核力は3種類あり、それぞれがT=0、T=1、T=2に対応する。\(g, \bar{g} \) は、核力の強さを表わす。係数のa0、a1、a2を計算によって求めたものが右のグラフ。ほかの研究者が計算した平均場模型の結果(青、緑のプロット)と比較して、殻模型の妥当性について考察した。

モンテカルロ殻模型で、新境地を拓く

 「以前、スーパーコンピュータを使わず、10億の配位のうち重要そうなものに絞って波動関数をつくり、計算したことがありましたが、それでは計算精度が悪くてダメでした。この研究では、原子核の波動関数をどれだけ正確に再現できるかが重要なのです」。そのために柳瀬さんは、原子核模型を選ぶところから、導き出されたシッフモーメントの妥当性を検討するところまで慎重に研究を進めています。
 この過程で、モンテカルロ殻模型を使おうと考えるようになり、2年前に、この殻模型の開発者のいる東京大学 原子核科学研究センター(CNS)に移りました。「洋ナシ形に変形した原子核をもつラジウム225(225Ra)は、199Hgよりも100~1000倍も大きなシッフモーメントをもつと考えられています。そのため、原子EDMが観測されやすいのではないかと期待されていて、観測実験が進んでいる原子の一つとなっています。実は、バリウム146(146Ba)も同じような洋ナシ形の原子核をもつので、この原子核の計算をしたいと思うようになりました。ただ、洋ナシ形の原子核の波動関数を再現するには、より広い模型空間を扱わなくてはならず、配位の数は199Hgと比べて少なくとも10桁以上大きくなると予想されています 。これはスーパーコンピュータ『富岳』を使っても計算できません」。そこで柳瀬さんが注目したのが、モンテカルロ殻模型です。この模型では50~100個の重要な配位だけを選び取って計算します。ただし、この配位を選ぶのに試行錯誤が必要となるため、配位の数が減らせるとはいえ、全体の計算量は膨大なものとなります。そこで、柳瀬さんは今後、スーパーコンピュータ「富岳」を使って計算を行う予定です。

実験と理論計算の双方で原子EDMを捉える日は近い?!

図6:129Xe、199Hg、225Raの原子EDM探索実験。年々、探索実験の精度は上がっているが、現状では原子EDMは観測されていない。ただし、特に精度が高い199Hgでは上限値が7×10-30e・cmで、さまざまな模型が予測する原子EDMのサイズに近いことから、近い将来、観測されるのではないかと考えられている。

 こうして、柳瀬さんが、原子EDMに対する核力の影響を正確に見積もろうと研究を進める中、原子EDMを実際に観測しようという実験の現状はどうなのでしょうか(図6)。年々実験精度が上がり、観測できるEDMの大きさはどんどん小さくなっていますが、まだ、原子EDMは観測されていません。一方、さまざまな模型によって原子核の計算と電子系の計算が行われて 、原子EDMの値が予測されています。この予測によって実験が動機づけられ、逆に実験結果によって理論が完全でないことが明らかになるといった関係を築きながら、これまで双方の研究は発展してきました。今、原子EDMの観測実験の精度が、 10-30 e・cmに迫っており、実際に原子EDMの観測される日は近づいているようです。
 柳瀬さんが「富岳」で行おうとしている洋ナシ形の原子核 のシッフモーメントの計算も、実験の研究者から「理論的にシッフモーメントが大きくなると示されれば、EDMが観測しやすくなる」と期待され、注目されています。将来、実験的に原子EDMが観察され、それと理論計算との一致から、CP対称性を破る核力の起源がわかったとき、柳瀬さんの計算も原子EDMの計算結果に貢献していることでしょう。

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